なんてったって高二病

肩の力抜いて

痛み、疲れ、時々潤い

最近各メディアでは「格差社会」との言葉が散見される。収入の格差が、教育、医療、キャリア、QOLの全てに波及するのだという。

それでも「老い」だけが平等だということは幼稚園児でも知っている。ここでいう「老い」とは、先端医療でごまかしの効く身体的な老化というよりは、人間として経験値を積む中での情動的な変化である。人は誰しも(子供ですら)社会の中で自分の年齢の重なりとそれに伴う変化を実感する。それは、「誕生日会」の儀式や学校の進級に伴う義務感など外界から与えられるものだったり、年少者の姿にかつての自分を重ねる(今の自分を重ねられない)自己反省的な態度だったりする。


かくいう僕も、最近は「老い」を感じる事が多い。受験という鳥籠の中に閉じこめられているからだろうか、体の不調には常に敏感になる。

クイズやサッカーという趣味から引き離され、未知の可能性への興奮も中々に感じられない。外界から隔絶された環境に置かれて、まるで時間が停滞する中で自分の身体だけが老いているような感覚に陥っていく。そのうち、気持ちの方も瑞々しさが失われる。

ソーシャルメディアを通して眺める中高生の世界は、雲の上にあって手が届かないようだ。空中で飛び回れるほど身軽な気持ちでは無いのだから。


それでも、いやそれだけに、生活の中のわずかな潤いが余計に愛おしく感じられる。

勉強の合間に十数分外を歩くと、まだ残る雪の上で光を浴びる子供たちの、その不規則な跳ね回りに頰が緩み耳が喜ぶ。

草花のちょっとした変化が嬉しい。

夜には親友とLINEでついつい長話をしてしまう。遠い昔のようだった現役時代も、この時にはつい昨日のような鮮やかさを見せる。